ヘンシェン ガルネリ レプリカ

ヴァイオリン


瞑想曲物語

ヘンシェン ガルネリ レプリカ

by D.K.A

プロローグ

2006年11月22日地元、高松短大音楽科第31回定期演奏会を終えた。 生涯学習の「たのしいヴァイオリン教室」からの参加であったが学生諸君に混じって 蝶ネクタイで第二ヴァイオリン第三プルトに座った。気恥ずかしく、面映かったが 文字通り「たのしいヴァイオリン教室」の締め括りとなった。
その数日後、ずっと同じクラスでヴァイオリンを習っていた三木谷さんがやってきて、 定期演奏会の余韻の覚めやらぬまま、以前に練習していた抒情歌のお浚いを2時間ほど お喋りを交えながら続けた。
帰り際、三木谷さんは唐突に「来年の春にまたいってみますか?」 と私の顔を見ないで言った。「そうですね」私は迷いながら答えた。
この毎週金曜日のヴァイオリン練習会は三人で始めた。
もう一人の人物、畑田氏が一年前から欠けている。そうだ、丁度一年になる。 この男の「迷走」により、 三木谷さんと私はその一年間言い知れぬ罪を背負って過ごしてきたことになる。


ヘンシェン ガルネリ アンティーク モデル
Hengsheng Guarneri アンティーク モデル
ヘンシェン ガルネリ アンティーク モデル

ヘンシェン・ガルネリ アンティーク モデル

畑田氏,三木谷さんと私は高松大学・高松短期大学生涯学習教育センターの公開講座 「たのしいヴァイオリン教室」の同期生として還暦を過ぎてからヴァイオリンを習い始める という浮世離れの同人として仲良くやってきた。竹馬の友も気が置けないといわれるが やはり環境が合わなくなったり出世がどうのということで必ずしも気が置けないというものでもない。
ところが還暦すぎて同じヴァイオリンが趣味で友達ともなればどこをどう威張ろうが全て過去のことだ。
威張ることといえばどちらのヴァイオリンがどう上手くてどういいかを相手を誉めることを通して 伺っているくらいで他愛もない。それが又楽しい。
また、自分が持っているヴァイオリンがいかに安物でも誉められると嬉しい。
本気で誉められると内心小躍りするほど嬉しいものだ。
畑田氏は金曜毎に私の事務所に練習に来るたびに私のヴァイオリン、 ヘンシェン・ニコロ=アマティ モデルを弾いては「ええなー」といっていた。 満更でもない。あまり真剣なので「買えば・・・。ヘンシェン(Hengsheng)は物語を語れるヴァイオリンだよ。定価40万円ぐらいを、30万円で 交渉してみるよ。」というとまた「ええなー」という。
それからしばらくして「買いたい。」という電話があった。
「・・・」と私。
「タバコを・・・」と畑田氏。「止めている。」と私。
「晩酌を控え・・・、海外旅行は2年に1回にする。」と畑田氏。
「ふーん」と私。
「ゴルフも止める。」と畑田氏。
「オー・ケイ。じゃ、話をつける。」と私。
「アマティはだめだよ。私が使っているから。」というとヘンシェンであればお任せする、 という。残るモデルはストラディバリウス、ガルネリ、ガダニーニだ。ブランドに拘るほどガキでもミーハーでもない心算だが寸分たがわぬレプリカはそれなりにオリジナルの 特徴を残している。
ストラド、ガダニーニは一般的過ぎる。ガルネリは前回の「弦楽器フェア」で頗る好評だった。
早速、輸入元の「ホスコ」の川合さんに電話を掛けた。彼は独自の民族楽器ミンミンを開発したり、 色々な音楽活動をしながら海外の楽器の発掘輸入をしている。
私は畑田氏のヴァイオリン演奏の特徴を説明して「なにがいいの?」と訊いた。
「モデルによりまして色々独自の特徴がございまして・・・」と川合さん。
「じゃなくて、川合さんはなにがいいと思うの?」と私。
「ガルネリ・・・。」と川合さん。
「じゃ、それにしよ。」意見は一致した。私は川合さんを信じている。
私のヘンシェン・ニコロ=アマティ レプリカ モデルも川合さんが勧めてくれたものだ。 今では完全に私の一部になりきっている。
因みに姉妹器のヘンシェン・ヴァイオリン・ストラディヴァリモデルは音楽大学教授で国際的ヴァイオリストの方の目に留まりお買い上げ頂いたそうだ。
数日してそれは届いた。
ヘンシェン HAV-GU3ガルネリモデル・タイプ3
(☆現在の最上位機種はHV-GU50A) ヘンシェン ガルネリ アンティーク モデル
アンティーク モデルだ。
450g、軽い。
トップは厳選されたヨーロピアン・スプルース。
バックは同じく厳選されたヨーロピアン・メイプル。
しっとりとした仕上がりだ。 300年の眠りからいま覚めたような幻想に襲われる。
Hengsheng Guarneri アンティーク モデル
ネックは同じく厳選されたヨーロピアン・メイプル。
鮮やかな虎斑が出ている。美しい。
畑田氏と三木谷さんを電話で呼んだ。
一番目の試奏はもちろん畑田氏だ。
お得意の「タイスの瞑想曲」。
「ええなー」三木谷さんと私の本音だ。
言葉では表せられないが、暖かく、柔らかで、深みのある音だ。
畑田氏のいつもの豪快な荒削りの音が熟成された音色に変わっている。
三木谷さんと私は顔を見合わせた。「参ったなー」ということだ。


畑田氏迷走

2005年11月16日高松短大音楽科第30回定期演奏会があった。
その1ヶ月ほど前のことだ。
畑田氏が「中国 敦煌と・・・」というツァーに行くという。
「演奏会はどうするの?」と訊くと「ヴァイオリンを持っていく」という。 帰国予定から10日ぐらいで定期演奏会になる。「楽しいヴァイオリン教室」からも 何人か参加する予定だ。畑田氏も当然参加を期待されている。
そして彼は一人旅に出た。いつも一緒のご夫人は来年、定年を控えて今回は自粛するらしい。
その後、帰国予定日をニ三日過ぎても帰国の電話がない。
定期演奏会までに後一週間だ。
いつもの練習日に三木谷さんと語らって畑田氏に電話を掛けた。
電話口に出たのはご夫人だ。「まだ、帰国していませんの。何をしているのでしょうかね。」 いたって冷静だ。
定期演奏会には畑田氏はついに来なかった。
ここにいたって家族の方も旅行社、在中国日本領事館等に捜索依頼を出す等して手を尽くしたが その年はむなしく過ぎた。
旅行社ではそのツァーは往復とホテルの手配だけで各人が現地でオプションの旅程選択をするため その旅行社以外で現地ツァーに参加すると全然サポート及びフォローできないという。
してみると畑田氏は単独で現地のツァーに参加したのかもしれない。










捜索行

2006年4月畑田氏のご夫人から電話があった。
敦煌の近辺で畑田氏かもしれない日本人らしき人物のうわさがあったと 現地の日本領事館から身元確認の要望があったようだ。 どうもはっきりしたことは解らないらしい。 ご夫人も非常に困っておられる。
そこで三木谷さんと私が現地に確認に向かうことにした。
三木谷さんは京都の仏教系大学の中国語学科出身で上海に永く駐在していた。
私も四半世紀前とはいえ米国移民だったし、生まれも中国青島だ(これは関係ない)。
とりあえず旅行者というよりは登山者の装備で現地に向かった。

途中、現地の副領事にあい事情説明を受け同じ方面の出身者で同行する通訳兼ガイドを紹介してもらい 敦煌までは無事ついた。
そこから目的地のオアシス都市までバスで一日半の距離だ。
悪路で外を見るとかなりの数の車が横転している。
谷底まで落ちている車も見える。あれで無事なんだろうか、瞬間思うがこちらもそれどころではない。
苦しくて生きた心地がしない。
どうやらオアシス都市についてホテルを取り次の日のためにジープを予約してもらってここで ガイドさんとはお別れ、帰りに合流してもらうことになる。
次の日は朝早くおきて現地に向けて出発だ。
青々と茂った果樹園を過ぎると砂漠だ。
その中の道らしきところを北に向かう。
彼方に銀嶺の山々が見える。
日の暮れかけた頃ふもとの部落につく。ここで一泊だ。
翌朝、彼のいる山小屋はすぐわかった。双眼鏡で見えた。
谷川に沿って一本道だ。地元で「冬の小屋」と呼ばれているらしい。
牧羊が冬の間寝泊りするところらしい。「夏の小屋」は麓からは見えない。1000メートルくらい標高差があるらしい。
三木谷さんと二人で登り始めた。
山登りは通常しんどいはずだが悪路のバス旅行と比べるとむしろ爽快だ。
山小屋まで一時間かというところで昼食を摂ることにした。
谷川の水は冷たいが雪解け水で美味い。
麓の砂漠にこの谷川の水は流れていない。
代わりに幾筋もの点が連なり線となってオアシス都市まで連なっている。
暗渠だ。点はそれを補修するための井戸だ。
この谷川の雪解け水は地下のトンネルを通ってオアシス都市で溢れ出る。
瀬戸内地方と違ってこちらは雨が降らないから渇水になっても雨乞いをせず、晴天を祈るという。 晴天になると雪が解けてまた水が流れ始めるという。
そんなことを話しているとどこかで鳥の声がした。
耳をすますと二人で顔を見合わせた。鳥でもない、二胡でもない、ヴァイオリンの音だ。
中国の古歌「折柳」だ。
大空にりゅうりゅうと鳴り響いていた。
ヘンシェン ガルネリ モデルの音だ。
小高い岡の上でヴァイオリンを弾いている男がいた。畑田氏だ!
二人はリュックを引っ担ぐと一散に駆け登った。
「畑田さん!」二人は同時に声を掛けた。
男はこちらを向いたが特別な反応はない。
  「畑田さん!」二人はもう一度声を掛けた。
反応はない。
よく見ると畑田氏ではないようにも見えた。頭は毛が長く伸び、いつもの眼鏡はかけていない。 色はかなり黒い。
人違いか?
しかし持っているヴァイオリンはヘンシェン・ガルネリ レプリカ に間違いない。
記憶を喪失しているのか。私達は一生懸命話しかけたり揺さぶったりしたが効果はない。
三木谷さんと私は途方にくれながらも善後策を練り始めた。もう夕暮れ近い。
畑田氏がすっと立ち上がった。
振り返ると華やかな民族衣装をつけた若い娘が近づいてくる。年の頃は・・・分からない。
13歳から30歳の間だろう。
いわゆる紅毛碧眼だ。オアシス都市でやけに白人観光客が多いな、と感じていたが何のことはない、 アーリア系の民族地域だったのか?
心配そうな顔をしてよってきた。
三木谷さんが一生懸命中国語で我々はただの観光客ではない、畑田氏を連れ戻しに来たと言うような 説明をしているらしい。
彼女も少しは理解したらしい。
暮色も濃くなったので彼女に導かれるまま小屋に入った。
小屋を暖めておいて彼女は戸外へでていった。
畑田氏は相変わらず何も言わない。
私達も押し黙ったまま囲炉裏を囲む。
しばらくすると牧羊が小屋の周りを取り囲んだのが分かった。
彼女が帰ってきたので私達は日本から持ってきた食品やホテルで買ったものをすべて出した。
畑田氏が黙っている以上私達も話すことがなくなり、翌朝彼を連れて帰るにあたり彼女にどう切り出すかを課題として小屋の隅で眠りに着いた。
日本から担いできたシュラフザックが初めて役に立った。
翌朝・・・。
私達は畑田氏をとりあえず日本に連れて帰れる喜びで一杯だった。
手早く身支度を整え、準備してくれた朝食をとると畑田氏の持ち物を整えようとした。
しかし、何もない。ヴァイオリンケースだけだ。
それをもって私が外に出ようとすると心配そうな顔をして見ている。
「さ、帰ろう」といって三木谷さんが畑田氏の手を取って外には出た。
が、嫌がっている。
ヴァイオリンケースを下において私も畑田氏の手をとるとそれを払いのけて戸口の柱にしがみついた。
「帰りたくないんだ」三木谷さんがつぶやいた。
「ここは腹をくくってご家族に謝る外無いな」私も自分自身に言い聞かせた。
私達はもう一度小屋に入って何がしかの金を包んで彼女に渡して早々に小屋をあとにした。
前日昼食をとった場所に来た。全てが夢のことのようだった。
そのとき、大空からヴァイオリンの音が降ってきた。
「タイスの瞑想曲」だ。
静かな懐かしい思い出、それがやがて深い悔悟で胸を抉られる様な曲想に変ったとき 「やっぱり連れて帰ろう」と駆け出そうとする私。
三木谷さんはそれを制していった。「あれが答えだよ」。
「答えにならない答えか」と私。
ヘンシェン ガルネリ レプリカの音は残雪の山々に鳴り響いて止まない。
やさしく吸い込まれるような音から心を深く抉り取られるような音に変わった。
私達は3時間の山道を文字通り駆け下りた。
その日のうちに駱駝二頭をチャーターして砂漠で2泊しオアシス都市の ホテルにたどり着いた。
あとはガイドさんと合流して敦煌まで戻った。
幸いなことに副領事が不在であったのでガイドさんに「畑田さんらしき人はいたけれど 人違いである」と伝言を頼んだ。ヘンシェン ガルネリ レプリカさえなければ 私にも断言できなかったはずだ。
関空から高速バスで私は津田、三木谷さんは高松中央で降りたはずだ。
その翌日は泥のように眠り続け次の日三木谷さんに電話を掛けた。
二人とも重い風邪患者のような声になっていた。
畑田氏のご夫人には「畑田さんらしき人はいたけれど人違いである」と伝えた。
老木に咲いた梅花一輪、折るに忍び難かったが、折らないのもまた罪なのか・・・。


エピローグ

「来年は畑田氏の奥さんと娘さんに一緒にいっていただきましょ。」
「それでご家族に結論を出してもらえばいい。」と三木谷さん。
私はそれもいい考えだと思った。
少なくとも責任逃れはできるし。



<< 続く >>






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